足利学校その3は、方丈と庭園です。
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先ほどの孔子廟のある杏壇門を出て東側にあります。
かなふり松の前から見える建物が方丈
右側が南庭園です。
方丈はこんな感じ。中は後程ご紹介します。
足利学校には、方丈の北と南それぞれに池の庭があります。この当時一般に行われていた書院庭園の形態をもつ築山泉水(つきやませんすい)です。
この庭は、湧水をたたえた池の入り組んだ汀と巨大な立石、それにかぶさる松が特徴です。三つの鉢をもつ築山は比較的高く、池の水面から3mほどもあり、池に映えてよく調和しています。
発掘調査の結果と、江戸時代の絵図によって修復しました。この整備の資料として用いた絵図は、精密で色彩も美しいものであり、庭の築山やそれぞれ植木などは絵図により復原したものです(江戸時代中期の姿に復原)。
*築山庭園とは、土を盛り上げて作った築山と、池のある庭のこと
庭には梅の花が咲いていました。
南側の通路は
裏門に通じています。
こちらは、さきほどの昌平町の石畳通りの場所です。
「裏門」
足利学校の門は、位置や場所が江戸時代に入って何回か変わっているようです。正門は、学校門で、江戸中期に中門と呼ばれていました。主に、日常使う門が、この裏門でした。
学校の裏には位置しないにもかかわらず、この門がなぜ裏門と呼ばれたか明らかではありません。
間口八丈の薬医門で、屋根が切妻造の茅葺です。両脇に目板瓦葺の屋根をかけた袖塀が付いています。
発掘調査によって、砂利敷きの通路が門から主屋の玄関や脇玄関へと伸びている様子がわかりました。
(宝暦年間の姿に復原)
脇には井戸を復原したものが。
裏門の左側にも梅の木がありました。
天皇皇后行幸啓 ベルギー国王・王妃・皇太子ご訪問記念 平成8年
サエンバ(菜園場)
絵図にサエンバとあるのは、「菜園場」のことと思われます。
ここでは、日々の食膳に必要な材料となる大根、ごぼうその他の野菜、栗や柿など果樹、茶屋や薬草を栽培し、ときには花なども楽しんだと思われます。
足利学校の学生は、僧籍に入り僧となりました。学生として学問に励むことは無論のこと、掃除、洗濯、野菜作りや料理など日常生活の全てが修業でした。(江戸時代中期の姿に復原)
野菜は、方丈北側の庭園で栽培されています。
藤棚もあります(2013年)。おそらく、足利フラワーパークの寄贈だと思われます^^
10年でずいぶん育ちました。
足利学校で咲き具合をチェックしてからフラワーパークに出かけるのも良いかもしれません。
2023年は史上最速の開花で、GW前に大藤はピークが終わってしまいました。
南角にあるこの細長い建物は・・・
「衆寮」
衆寮は、僧房又は学生寮です。学生が寄宿し、あるいは遠くから通う学生が写本をするために泊まったと思われます。
桁行八間、梁間二間半、屋根は切妻造で板葺、外壁は上が土壁の漆喰仕上、下が板張です。内部は六畳の間に一間の土間がついて一部屋になり、それが四部屋続く長屋となっています。
発掘調査の結果、塀の中から多数の灯明皿が出土していることから、夜の闇の中で灯明をともし、学問に励んだ様子をうかがうことができます。(宝暦年間の姿に復原)
部屋の中の様子はこんな感じ。畳間に小さなテーブルがあって、灯明が灯してありました。
薄暗い中で漢文を書き写していたんですね。
ここで、足利市の職員がちょん髷&絣の着物を着て、
必死に書き写す苦学生のパフォーマンスしたら面白いのに~
(ただし、団体客30人以上の場合に限る、とか)
それでは、方丈の中に入って行きます。
方丈は、梁間(はりま)11m、桁行(けたゆき)17m、軒桁までの高さ5m、外側の柱から茅の先(軒先)までが2.8mあります。
また地上から大棟(おおむね)までの高さは13.8mです。
寄棟造りで屋根は茅葺き、禅宗寺院の方丈形式であるのが特徴です。
こちらが入口の庫裡です。
庫裡は竃(かまど)のある土間、板敷の台所、畳敷きの四部屋へとつづき、その奥には湯殿などがあり、庠主や学生の日常生活の場として使われていました。
入口の横に「宥坐之器」 前市長 大豆生田実 書
「宥座(ゆうざ)」とは、常に身近に置いて戒めとするという意味で、孔子の説いた「中庸」ということを教えるものです。
壺状の器に水が入っておらず空の時は傾き、ちょうど良いときはまっすぐに立ち、水をいっぱいに入れるとひっくり返ってこぼれてしまいます。
孔子は、「いっぱいに満ちて覆らないものは無い。」と慢心や無理を戒めました。
動画はこちら(※音楽が鳴ります)
入口に入るとまず、「椀用ポンプ」(明治時代以降)がありました。
明治17年(1884)年頃から量産され始めた国産の腕用ポンプ(ガッチャンポンプとも呼ばれた)で、消火用のポンプのようです。
こちらはご飯を炊く釜でしょうか。結構大きいです。
お味噌汁におかず用でしょうか。
庫裡の展示コーナーに上がると
正面には「學校」の扁額。
寛文8年(1668) 蒋竜渓 書
蒋竜渓(一説には明の公使といわれている)が書いた扁額は、門に飾るには大きすぎたため、上佐兵衛尉狛高康が縮小模写したものです。
杏壇門の扁額 天保14年(1843) 徳川治宝 著
「杏壇」とは、杏子の木の多く生えている高台という意味で、孔子が弟子に教えを説いた場所をさすようになり、さらには広く学問・研究をするところを意味するようになりました。
展示品室はこんな風に畳敷きになっており、
各時代ごとの足利学校の歴史を紹介する資料が展示されています。
一部を抜粋してご紹介いたします。
上杉憲実 像
壁には上杉氏系図があり、手前には、NHK大河ドラマ天地人ゆかりの霊洞庵(新潟県南魚沼郡)と足利学校の関係がかかれてありました。
上杉氏系図
上杉憲実の中興
雲洞庵縁起
孔子坐像(実物)の写真
庠主(歴代校長)の出身地地図
全国津々浦々からやって来ているのが分かります。
上杉氏3代にわたる書籍の寄進
足利学校の歴史 その1 足利学校の起源
年表があります。
足利学校の歴史 その3 最高期の足利学校
大航海時代の資料です。
フランシスコザビエルの絵と、「宣教師はなぜ足利学校のことを手紙や本にとりあげたのだろう?」という説明。
天文図
石版に天体図が彫られています。
足利学校の歴史 その4 近世の足利学校 「年筮(ねんぜい)献上」
年筮とは、その年の吉凶を占ったもので、これを徳川幕府に届けるのが近世における足利学校の重要な役割でした。
取り壊し前の東小学校の写真、復原工事中の写真、出土品。
足利学校の歴史 その6 発掘と復原
江戸時代に流行した唐津模様の陶器の数々
足利学校の歴史 その7 足利学校の釈奠(せきてん)
《「釈」「奠」ともに、供え物を置く意》陰暦2月と8月の上の丁(ひのと)の日に孔子を祭る儀式。古代中国では先帝先師の祭りの総称であったが、後漢以来孔子とその弟子を祭る大典をいうようになった。日本では大宝元年(701)に初めて大学寮で行われ、室町時代には衰微したが、江戸時代に幕府・諸藩が再興、現在も湯島聖堂などで行われている。~辞書より
こちらは近代の歴史です。
廃藩置県の結果、足利学校は県の管理下に置かれることになり、
その際、貴重な資料が紛失しないよう保護運動が行われた際の記録です。
写真は、足利出身の画家、田崎草雲です。
正直な所、歴史オタでもないと、この資料を片っ端から読んで楽しむのは難しいですね。
昔、できたばかりの頃に来た時は、もっと道具類なんかも飾ってあったような気がしたのですが。
一通り資料を見終わって廊下を進むと、脇玄関には、左から、
孟子、曾子、孔子、顔子、子思子の木像と屏風。
屏風は中国済寧市が昭和62年に制作したもの。
前面には、孔子の論語の一節が書かれています。
孔子の木像は外の庭園からも見えます。
廊下をさらに歩いていくと、足利学校の模型があり、
その隣には、仏殿、須弥壇
奥には、東照宮大権現(徳川家康公)が祀られています。
その隣のコーナーには、徳川幕府歴代将軍の位牌が展示されています。
第9世庠主閑室元信和尚は(別号は三要)は、家康の信任が厚く、有名な関ヶ原の合戦では家康に従って陣中で盛んに易を立て、戦いに役立てました。幕府では寺社職(後の寺社奉行)や外交関係の政策を任されたほか多くの御用を仰せ付けられ、亡くなるまで家康の側近くに仕え、重用されていました。
足利学校は、このように閑室元信と家康との結びつきが強かったことから、幕府より百石の朱印地を賜り、庠主は幕府の任命制となっていました。
その後も徳川幕府により建物の修復費用を下賜されるなど、足利学校は特別の保護を受け続けました。これらのことなどから、徳川幕府歴代将軍の位牌を安置し、礼拝することになりました。
第三代の徳川家光から第十一代の徳川家斉までの位牌が展示されています。
位牌の向かいにも、ミニチュア版の「宥座之器」が置いてありました。
先ほどの資料館の方に戻って見ると、庫裡の北側に書院があり、
庭園を見渡せるようになっていました。
北庭園。ちょっとため息が出るくらい、南庭園よりもこちらの方が素敵でした。
書院の方は畳敷きの何もない部屋なので、
この渡り廊下に座って庭を眺めたいですね。
有料で抹茶とお菓子でも出せばいいのに・・・と思ってしまいました。
(ただし、団体客30人以上に限る・・・でもいいから)
追記:コロナ前は「お茶席」のイベントを行っていましたが、2023年現在はやっていません。
北庭園
奥の庭として、南庭園より格が高く、大きく、方丈、書院から鑑賞するように作られています。形は、南庭園と同じく築山泉水庭です。
池は、湧き水をたくわえ、亀の形の中島を置き、そこに弁天をまつる石祠があります。築山が四つの峰で池を囲み、一番高い峰で水面から3mほどあります。
かつては、鑁阿寺の森や遠く両崖山の峰が築山越しの借景になっていたと思われます。
発掘調査の結果、この庭は南庭園より古く、三回にわたって修復され、作庭当初と合わせて四期の変遷があったことがわかりました。
(江戸中期の姿を復元)
池の端には2羽の鴨が並んでおしゃべりしていました。
ここの鴨は、結構太ってます^^
さて、方丈を出て、裏にある建物を見に行きます。
庫裡の勝手口
向かいには、「木小屋」 煮炊きに使う燃料の木を収納する小屋です。
奥には「土蔵」 書籍以外の大切なものを収納していたそうです。耐火構造。
(宝暦年間の姿に復原)
北庭園の裏にも、菜園場があります。何か野菜が植えてあったような。
さらに奥(西側)に進むと
歴代庠主の墓があります。ここは以前から変わっていないです。
孔子廟の裏をぐるっと回って
竹藪があり(奥は書籍の収蔵庫)、
図書館の前に出ます。
帰りに、方丈の入り口で流れていた論語のCDが気になったので、
受付で購入しました。
この日は、朝9時から
・足利学校
と巡り、午後4時に観光が終わりました。
史跡 足利学校
栃木県足利市昌平町2338
TEL:0284-41-2655
JR両毛線足利駅から徒歩10分、東武伊勢崎線足利市駅から徒歩20分
受付時間 4月~9月 9:00~16:30
10月~3月 9:00~16:00
休日 第3月曜日(祝日、振り替休日のときは翌日)
年末年始(12/29~1/3)
その他 管理上やむを得ない場合
拝観料:大人420円
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